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當山 久三
當山 久三 (とうやま きゅうぞう)

生年月日:1868年(明治元年)11月9日

出生地:沖縄県国頭郡金武町

没年月日:1910年(明治43年)9月17日(満41歳没)

出身校:沖縄県尋常師範学校

沖縄県議会議員

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當山 久三(とうやま きゅうぞう、1868年(明治元年)11月9日 - 1910年(明治43年)9月17日)は、日本の政治家、社会運動家、教育者。

沖縄県における海外集団移民事業の主導者として知られ、「沖縄移民の父」と称される。

沖縄県国頭郡金武町出身。

経歴

1868年(明治元年)11月9日、當山家の長男(5人きょうだいの2番目)として琉球王国金武間切
    (現在の沖縄県金武町)並里に生まれる。
    幼少期の久三は、豪気な腕白少年で、何をするにも一番にならなければ気が済まない性格だったという。
1882年(明治15年)に金武小学校が創立され、同級生29名とともに入学。
    当時の小学校は4年制であったが、優秀な成績と進取的な性格が認められ、2年で卒業の資格が与えられた。
1884年(明治17年)、小学校を卒業した久三は沖縄師範学校に入学。
    他の学生らと髷を切るなどして古い風習を絶ち、文明開化の先頭に立った。
    師範学校時代の久三は成績が良い方ではなかったが、
    これは沖縄の社会問題など教科書以外の勉強に余念がなかったためといわれている。
    在学中に結婚し、長男・久夫をもうけている。
1890年(明治23年)卒業。
    師範学校を卒業した久三は、羽地尋常小学校(現在の名護市立羽地小学校)に赴任した。
    当時、役人や教師は本土出身者が多く、沖縄出身の教師は非常に珍かった。
    沖縄出身者に差別的な態度をとる本土出身の校長との間に不和が生じ、
    赴任からわずか2年で羽地小学校を退職することとなった。
    しかし、地元住民からの信頼は厚く、多くの者が久三の退職を嘆き惜しんだという。
1893年(明治26年)、地元の金武小学校に首席教員として迎えられる。
    最上級の4年生を教え、生徒からは尊敬され慕われていた。
    しかし、再び役所や本土出身の同僚との間に軋轢が生じ、自ら首席教員の職を辞した。
    教壇を去った久三は、村民の要望を受け、地元・並里の総代
    (現在の町議会議員と区長を兼ねた役職)に就任した。
    給料は教員時代の14円から4円に激減したが、熱心に村の改革に取り組んだ。

    村民の中には、改革者・久三をおそれ、中傷したり暴行を加えたりする者もあった。
    これらの一部村民に辟易した久三は、総代を辞め、一人で山にこもり晴耕雨読の生活にふけった。
    このころから海外移民事業について考えはじめていたという。

    閑居を続けるうちに「一人で山にこもっていては世の中の問題は何も解決しない」と思い立ち、
1898年(明治31年)、上京を決意した。
    東京では適当な仕事に就けず、その日暮らしの生活を送っていたが、向学心は忘れなかった。
    ある日、久三は古本屋で『植民論』という一冊の書籍に出会った。
    山ごもりの生活を送っていたときから考え続けていた「移民」に関する本だった。
    むさぼるようにこの本を読んだ久三は、沖縄の食糧・人口問題解決のためには
    海外移民事業が必要であるとの確信に至った。
    このころ謝花昇と知り合い、互いに意気投合。2人は
1899年(明治32年)、帰郷した。
    沖縄に帰った久三と謝花は、ともに同志をつのって政治結社・沖縄倶楽部を結成し、
    機関紙『沖縄時論』を発行するなど自由民権運動に関わっていった。
    しかし、やがて久三の情熱は、かねてからの関心である海外移民事業に向けられていった。
    海外移民事業を実現するため、久三は熊本県の移民会社と連絡をとった。
    移民会社によれば、海外移民事業を実施するには沖縄県知事の許可が必要だった。
    久三はさっそく奈良原繁知事に会い、海外移民事業の許可を懇願した。
    再三の要請にもかかわらず、奈良原知事ははじめ久三の願いを聞き入れなかった。
    しかし、粘り強く交渉を続けた結果、知事も久三の熱意に動かされ、
    海外移民事業の実施を条件付き(移民力の手紙は郡長をとおして知事に見せること、
    金武間切だけでなく県内各地から移民を募集すること)で許可した。
    海外移民事業の許可が下りてもなお、久三にはさまざまな困難が立ちはだかった
    (未知の世界に対する恐怖から流されたデマや、旅費の工面など)が、ついに
1899年(明治32年)12月5日、沖縄初の海外移民30名を那覇港からハワイに送り出すことに成功した
    (ただし30名のうち4名は移住のための検疫に合格せず強制送還されている)。
    第1回ハワイ移民は、帰郷するなり立派な家や田畑を買ったため、
    県民の間に「移民は儲かる」という評判が流れ、第2回ハワイ移民には申し込みが殺到した。
1903年(明治36年)、第2回ハワイ移民団は沖縄を出発した。
    久三はこのとき移民団に同行し、ハワイ島・オアフ島で6か月間滞在している。
    現地でサトウキビの栽培や英語の習得に情熱を注いだ。
1909年(明治42年)、沖縄県で初めて行われた県議会議員の選挙に国頭郡から立候補し、トップ当選を果たす。
    ところが、このころから病気がちになり、
1910年、期待された政治手腕を発揮することなく死去した。享年43。

久三が並里総代時代に取り組んだ改革として、次のものが挙げられる。

・「神聖な土地」と住民から恐れられた広大な森の開墾(この土地を金武小学校の敷地とした)
・髷や入墨など古い習俗の廃止
・祭祀の簡素化
・毛遊び(モーアシビー)の禁止
・武田原(ンタバル)地区の排水工事や福花原(フッカバル)地区の耕作地拡大をはじめとする農業改革


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